May 17, 2005

静かな世界遺産の町 トシェビーツュ〜聖堂とユダヤ人地区〜

Trebic1M・クルムロフから40km,車で約30分で,いよいよトシェビーツュ(Trebic)に到着.以外にも大きな町でびっくりした(人口4万人)が,チェコのありふれた田舎町といった佇まいである.まずは車でセントラム(中心街)へ進入.休日なので駐車場は無料であった.2003年に世界遺産に登録されたばかりなのか,町には観光客は見当たらず静かな日曜日であった.我々は世界遺産巡りの前に,まずはチェコ飯とビールで腹を満たした.

bannerクリックすると小生のブログランキングが上がります


StProcopiusBasilica1プロコピウス・バシリカ聖堂入入り口.







StProcopiusBasilica3StProcopiusBasilica2プロコピウス・バシリカ聖堂外観.








StProcopiusBasilica5外観から素晴らしい聖堂の中は想像もつかない.ガイドツアー前に外から見ていて,変な建物だなぁと議論していた.向って左はロマネスクとゴシックが混ざった建築物だったからである.







StProcopiusBasilica4見学ツアーの入口.この入り口のアーチも価値あるものなので,ツアー前にじっくりと見ておくと良い.内部はツアーでしか見学はできない.ツアーは毎時0分から開始され,チェコ語のガイドが付き40分ほど.要求すれば英語で書かれた概要説明を貸してくれる.内部は写真・撮影禁止.







ProkopiusBasilica-1一歩聖堂の中へ入って息を呑んだ.厳かな祭壇,ロマネスクの出窓とアーチ型天井,繊細な彫刻品の数々がミサの名残とも思える仄かな煙と香りの中に幻想的に現れた.そして,これらの内部の建築物,装飾品とローズ・ウィンドウから差し込む後光のような光が融合した神秘と静寂の時の中に自分がいた.非常に感動的なシーンであった.ツアーでは,聖堂と横の部屋を見学した後に,地下室の見学もできる.見る場所は少ないが,とにかくその雰囲気と細部をじっくりと堪能した.バシリカ(Basilica)とは,教皇より特権を与えられた聖堂のこと.プロコピウス(Procopius)は,Justinian I統治期のビザンチンの歴史家である.この聖堂はもともと聖母マリアに献納されたもので,13世紀前半にベネディクト会の修道院(1101年)の一部として建てられた.1468年にハンガリー軍が攻めてきて被害を被った後,200年以上の間は穀物倉とビールの保管場所として利用されていたが,建築家Kankaによって1725〜1731年にかけて修復されてからは,再び神聖な場所となった.1924〜35年にKamil Hilbertが内部の装飾品を手掛けた.バシリカ聖堂の最も貴重な部分は,(1) 地下室にある700年の時を経た木の天井,(2) 石が交差したロマネスク・アーチ型天井, (3) 教会西の張り出し部にあるローズ・ウィンドウ,(4) 教会入り口の石でできたアーチ型構造などである.やはり面白いのは,ロマネスクで始まりゴシックで終わったこの建築である.天井の梁の組み方を見ると先方と後方で異なるのが一目瞭然である.

ユダヤ人地区5続いて向ったのは,ユダヤ人地区.市街広場からは川の北側に位置する.現在住んでいる120以上の家々と並ぶ形で,ホールや学校,ラビネイト(rabbinate)や救貧院などのユダヤ人のオリジナルの建築物が残っており,町を歩くと不思議な感覚を覚えた.







ユダヤ人地区2ユダヤ人地区1ユダヤ人にとってトシェビーツュは,モラヴィア地方の重要な拠点であった.この町は,ユダヤ教とキリスト教が平和的に共存しており,ユダヤ教の貴重な文化遺産が残されているため,プロコピウス・バシリカ聖堂と共に世界遺産に指定された.ユダヤ教との共存はナチによるユダヤ人大虐殺まで続いていたそうだ.異教文化が共存して世界遺産に登録されるとは,何ともチェコらしいと思った.




ユダヤ人地区6ユダヤ人地区7ユダヤ人地区と聞いてプラハのゲットーを想像していたのだが,非常にこじんまりとした地元人の生活観漂う長閑なところであった.ユダヤ人地区に住む子供達に声を掛けられて,暫しチェコ語でお話した.まだここは東洋人が珍しいのかもしれない.むしろ観光で訪れた我々の方が浮いてしまっており,小さなユダヤ人地区の入り組んだ路地や裏庭のような階段を歩いていると,何かよその家の敷地を汚しているような感覚さえ覚えた.



ユダヤ人地区4ユダヤ人地区3観光客も少なく,天気の良い普通の日曜の午後.ユダヤ人墓地は町外れの高台の上にあった.1468年にハンガリー軍によって破壊された後に,ユダヤ人墓地がここに移動したそうだ.3000以上の墓碑が立つその空間は,墓好きの小生にとっても,心安らぐ場所であった.世界遺産に指定された(されてしまった)トシェビーツュであるが,観光都市化せずにいつまでもこのままの長閑なモラヴィアの田舎として在り続けて欲しいと願う.ミクロフ同様,いつかまたのんびりと訪れたいチェコの田舎町である.


トシェビーツュ地図入手したトシェビーツュの地図を掲載します(今回訪れたのは,1,2,3,4,6,7).旅の参考にどうぞ.









Jihlava世界遺産の余韻に浸りながら,イフラヴァ(Jihlava)で茶をしばいてから帰宅(写真中の教会横の喫茶).イフラヴァは歴史ある町で古い建築物も残されている.人口5.2万人でトシェビーツュよりは少し大きな町.以前は炭鉱町だったそうだ.ここもなかなか落ち着いた良いところであった.




【後日談】

ソラ;「いやぁーこの前の日曜にトシェビーツェっていう世界遺産の町に行ってきたけど,いいとこだね.行ったことある?」

同僚ロスチャ;「そこ,俺の住んでいる町なんだけど.何で電話してくれなかったんだよ」

ソラ;「すっかり名前を忘れていたよ.日本の特別番組で放映されたそうだから有名になっているよ.でも田舎だからなかなか行き難いだろうね」

ロスチャ;「いや,フローレンツから直通バスが運行しているし,そのうち日本人が沢山くると思うよ.プラハから2時間半くらいかな.ちなみに鉄道だと2回は乗り換えなきゃならなくて不便だよ」

ロスチャ;「今度是非遊びにきてくれよ.15kmほど離れたところには素晴らしい城もあるんだぜ.世界遺産のゼレナーホラも案内するよ」

ソラ;「いくいく」

andromedayaki at 20:36│Comments(3)TrackBack(0) チェコ 

 トラックバックURL...記事に関係ないTBは削除させて頂きます

この記事へのコメント

1. Posted by Pan.M   May 18, 2005 21:29
ソラ様
今回もショートトリップを企画していただいてありがとうございました。モラヴィアの高原ならではのさわやかな空気を胸に吸うことができました。プラハ同様、おそらくこのユダヤ人地区もかつての主たちはもう住んでいないのでしょう。主のいなくなった地区には、政治的な理由から別の人々がこの地に住むようになったと思います。世界遺産登録を機に、この共存がよい方向に進むことを願っています。

「スラヴ叙事詩」という一枚の絵があるのだと思っていたら、実は20枚もあったのですね。本当に文字通り、スラヴの歴史が「描かれていた」んですね。
2. Posted by ユウ   May 18, 2005 22:23
ソラさん、こんにちは
こちらにもお邪魔させて頂きます

日本の放送では鉛色の空の下、憂いある街の表情が強調されていましたが、青空も絵になりますね
プロコピウス・バシリカ聖堂は入口の写真から惹かれます
ユダヤ人地区も何とも言えない情緒が感じられ、
世界遺産指定の有無関係なしで一度行ってその場の雰囲気を肌で感じたいと思いました
後日談のPan.ロスチャさんのおっしゃるお城も気になるところです
3. Posted by ソラ   May 18, 2005 22:54
やはりここの先住民は強制収容所へ送られて行ったのでしょうね.
ここに残る墓は,それ以前の古い時代のもので,新しくても1800年代後半でした.

チェコの晴天率は年間90日程度(週に1〜2日)ですので,ロケ隊滞在
期間中は多分晴れなかったのでしょうね.それでも絵になる町だと思います.
ザーメックかもしれません.滞在中にもう一度レポートできればと思っています.

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
プロフィール

SOLA

流星-彗星-小惑星を追い求め世界を放浪する天文学者の四方山話。地球(チェコ-台湾)を拠点に宇宙・科学・文化・芸術・音楽を楽しむ旅人生ブログ。

最新コメント
空 犬