June 28, 2005

昼のアムステルダム

アムステルダム1王宮プラハから格安航空SmartWingsで約1時間,早朝のアムステルダム国際空港に到着(1590Kc=約7千円)。アムステルダム駅まで電車で約20分。乗り場手前に切符に刻印する黄色い機械があるが,動いていなかったので駅員に聞いたところ,オランダもベルギーも切符のヴァリデーションは必要ないとのこと。地図を頭に入れていたつもりだったが早速道に迷い,気が付くと中華街を抜けて早朝の飾り窓地区に突入していた。やれやれ。かなり遠回りしてからダム広場に到着。取り敢えずダム広場から戦没者慰霊塔(左)と王宮(右)とをカメラに収める。この白い塔の周りは,60〜70年代にかけて世界中のヒッピーの溜まり場として「あしかの丘」と呼ばれていたそうである。現在もごろ寝する輩がちらほら居た。
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ホテルダム荷物が重いのでまずはホテルにチェックインしようと向ったのは,駅近くのダムホテル。バス・トイレ&洒落た朝食付きで1泊40ユーロの安ホテルだ。チェックインは午後2時からとのことで,鍵を借りて荷物を倉庫に入れさせてもらい,貴重品と地図と水だけを持って散策に出かける。今日はとことん歩き回るつもりだ。


アンネ



アンネの家まず向ったのはアンネ・フランクの家。アムステルダムらしい景色が広がる水路を3つ渡ると西教会が現れ,教会の横のアンネの像が迎えてくれた。教会を右へ曲がるとアンネの家だ。情報によるとかなり込み合うとのことだったが,たまたま小生が入ったときは人が少なく,待ち時間無しで入館できた(ミュージアムを出てきたときには大行列ができていた)。アンネ・フランクの家は,1960年に一般公開を開始。表通りから見える前の家は父オットー・フランクの会社で,アンネ達8人の隠れ家はこの家の後ろの家の3階より上の部分である。ウェブカメでアンネの家をリアルタイムで見ることができる。1933年にヒトラーがドイツ政権を握りユダヤ民族への迫害が強くなると,フランク一家はオランダに移住。しかし1940年5月にナチスがオランダを占領すると迫害が一層厳しくなり彼らは隠れ家へ身を隠すことになった。1942年7月6日から住み始めたフランク一家は,1944年8月4日に何者かの密告によりドイツ秘密警察に連行されるまでここに住んでいた。その時に記された「アンネの日記」はあまりにも有名で60以上の言語に翻訳されている。強制収用所に送還された一家は,父オットー・フランク(アウシュビッツ収容所)を除き全員死亡。アンネは,ベルゼン収容所でチフスに感染して1945年3月に亡くなった(16歳)。ヒトラーが自殺してドイツが無条件降伏する僅か1ヶ月前のことだった。同年6月にアムステルダムへ戻った父オットーはアンネの日記の出版を決意し,隠れ家をミュージアムとして一般公開する運動に関わり,1980年91歳で亡くなった。現在は,アンネ・フランク財団が諸権利を有する。アンネ直筆の日記を見たが,中学生とは思えない非常に達筆な字で,まるでブロガーの様に毎日の様子を緻密に記していたのが反って心を締め付けられる思いがした。見学した日は欧州中が猛暑であり,アンネの家の中は大変蒸し暑くて長くいることは出来なかった。夏にここを訪れる人は,うちわを持参することを強く勧める。

ボートハウス外には涼しげなボートハウスが点在している。オランダではボートハウスが法律で認められていて,郵便ポストもちゃんと備えられており,のんびりと日向ぼっこを楽しんでいる様子が何とも羨ましかった。


鰻重朝食を食べていなかった小生は,奮発して和食を楽しむことにした。茹だるような暑さをぶっ飛ばすべく,日本料理店”京”で「蒲焼定食」を頂いた。美味かった(鰻食ったのは3年振り)。サラダとヒジキが付いて18ユーロ。ビールはもちろんオランダビールのハイネケン。鰻パワーを得た小生は,炎天下の中を再び徒歩で観光に繰り出した。午後はアムステルダムの美術館巡りと決めていた。



ニューマルクト広場ニューマルクト広場(計量所)を抜けて,マヘレの跳ね橋を見ながら国立ミュージアムに到着。余りにも熱くて,頭がもうろうとして
いた。




国立ミュージアム国立ミュージアムは,1885年に開館したオランダ最大のミュージアムで,その建築にも定評がある。小生のお目当てはオランダ画家とそして何といってもフェルメールである。





フェルメール小路小路(The Little Street, 1658)」は,フェルメールとしては珍しい風景画である。





牛乳を注ぐ女青衣の女「牛乳を注ぐ女(The Kitchen Maid, 1658)」の青色は筆舌し難い深みのある美しいブルーである。フェルメールの使った青色は,今日では再現できないらしい。この絵画とはフランクフルトのシュテーデル美術館「フェルメール特別展」以来(2ヶ月振り)の再会であり,今回は更にじっくりと楽しんだ。「青衣の女(Woman Reading a Letter, 1662-63)」もほのぼのしていて良い。「恋文(Love Letter, 1669-70)」は現在日本に行っているが,小生は2ヶ月前にシュテーデル美術館で鑑賞しているし,帰国してから兵庫県立美術館で10月25日(火)〜1月15日(日)に開催されるフェルメール展で再会できるのでよしとする。ちなみに,6月28日(火)〜9月19日(月)に上野の国立西洋美術館では,ドレスデン国立美術館展−世界の鏡が開催されていて,フェルメール「手紙を読む女」を観ることができる。今年と来年は,「日本におけるドイツ年」なのでドイツの美術品が日本でも楽しめそうだ。


水浴びレンブラントなどを楽しんで,国立ミュージアムを後にした。外の池では人も犬も入り混じって水遊びをしていた。次に訪れたのは「ゴッホ美術館」である。






ゴッホ1向日葵ゴッホ2フィンセント・ファン・ゴッホ(1853−1890)が10年間で製作した作品は,油彩800点,水彩・スケッチ画等1000点にも上る。オランダ時代(1880−85),パリ時代(1886−88),アルル時代(1888−89),サン-レミ時代(1889−90),オーヴェール-シュル-オワーズ時代(1890)の順に彼の試行錯誤の絵画を見ていくと,画家としての苦悩と努力がよく分かる。才能を努力を持ってして磨き上げて世界の一流画家になったゴッホは,あらゆる物を自由自在に表現できた天才画家フェルメールとは全く対照的な画家であることが理解できる。旅する物理屋さんが言っていた「研究に通じるところを感じる」という意味が分かる。ゴッホは努力で第一線を築いたいわば「研究画家」なのである。素晴らしい成果と好評とは裏腹に彼は精神的に弱く,1890年7月にピストル自殺してしまったのは残念でならない。「カラスが群れ飛ぶ麦畑」は,ゴッホが最後に描いた絵画だと言われている。パリ時代に描いた黄色一色の鮮やかな「向日葵」から感じられる生命力とは裏腹に,何か死を予感させるものがある。

andromedayaki at 18:00│Comments(3)TrackBack(0) フェルメール 

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この記事へのコメント

1. Posted by まーらいおん in Praha   June 29, 2005 06:30
引用ありがとうございます^^
わたしも国立博物館でレンブラントを見てみたかったのですが、飛行機の乗り換えの合間だったのでちょっと時間がなくて見られませんでした。フェルメールもたくさん見られたようでうらやましいです。次の報告も楽しみにしていますね。
2. Posted by ソラ   June 30, 2005 01:01
☆まーらいおん,
ゴッホ美術館は高いけど見る価値はありましたね。
3. Posted by ソラ   June 30, 2005 01:01
☆まーらいおんさん,
ゴッホ美術館は高いけど見る価値はありましたね。

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