July 11, 2005
チェコの強制収容所「テレジーン」と霊峰「ジープ山」
チェコは1週間の連休最後の日とあって,多くの車が爆走していた。驚いたのはオンドジェヨフからプラハへ向う高速で,ほぼ1kmおきに4台の車がひっくり反っていたのだ(写真のような軽度の事故車は2台見かけた)。この日だけで小生は行きに5件の事故,帰りに5件の自動車事故を目撃。そのうち2台はひっくり返って運転席は潰れて無くなり更に炎上していた(消防車が出動していた)。安全運転を心掛けていても,いつ自分が巻き込まれるか冷や冷やの運転である。チェコで生き延びるには,運転テクニックと運も必要なようだ。
プラハ城などがあるストラホフの地下を走るストラホフトンネルを抜けて混雑するプラハ中央駅前を避けてプラハへ入る,小生のいつものルートである。この立派なトンネル内だけは,チェコ人はスピードを落として安全運転をする。何故かと言うと,監視カメラがあるからだ。このトンネルだけは,いつもがらすきなのもちょっと奇妙である。
デイヴィツカー駅前でMさんを拾ってドレスデン方向の高速に乗り一路北へ向う。テプリッツェへの途中,ちょうど30km地点で高速の右手に小山が見える。この小高い山は以前から気になる存在であった。あるチェコ人から「この山は,チェコにとって歴史的に非常に重要な地点である(この山の山頂からチェコ国が発見された)」ということを小耳に挟んでいたので,帰りに寄ることにした。向日葵畑に黄色い色が目立ち始めた。
プラハから35km地点で高速を降りて,更に12km北上すると,長閑な田舎に突然ナチスの強制収用所テレジーン(Terezin)が現れた。国が管理する墓地の全ての墓石には,真赤はバラの花が飾られていて,その歴史的意味を知ることが無ければ,なんとも美しい光景である。
ゲットー資料館との共通チケット(180kc)を購入して入場。そこには,何処かで見たものと同じドイツ語が現れた。
「働けば自由になれる」。それは,ポーランドのアウシュビッツ収容所の入り口にある言葉と同じであった。写真は,3月にポーランドへ行った際に訪れたアウシュビッツ(オシュウェンチム)とビルケナウ収容所ガス室へ続く線路。
テレジーンは,ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所へ移動する囚人達の中継地点として主に機能していた。しかし,ここでも1943〜1945年に7千人のチェコ人やスロヴァキア人が死亡している。処刑場(銃殺,絞殺)もあるが,ここでは300人ほどしか処刑されていない。多くは劣悪な環境下で病死したそうである。収容施設には,当時の木のベッドやストーブなどが残されており,綺麗にされた部屋だが,独特の嫌な匂いが染みついている。
テレジーン収容所は,ヨゼフ2世がプロシア-オーストリア戦争で敵軍を防ぐ為に1780〜1790に作らせた要塞を利用して建設されている。要塞の中には,入り組んだ地下壕があり,観光客は長い地下道を抜けて歩いていく。実際にこの地下壕は収容所の施設としては使われていない。外の猛暑とは裏腹に壕内はとても涼しかった。
ゲットー博物館を見学。収容施設の子供達が描いた絵が痛々しかった。
テレジーンで我々は激しい雷雨に直撃され,20分ほど足止めを食らった。雷雲が去り我々は雷雲を追いかけるようにテレジーンを後にした。この後,我々は神の洗礼をうけることになるとは知らず。。。
プラハ城などがあるストラホフの地下を走るストラホフトンネルを抜けて混雑するプラハ中央駅前を避けてプラハへ入る,小生のいつものルートである。この立派なトンネル内だけは,チェコ人はスピードを落として安全運転をする。何故かと言うと,監視カメラがあるからだ。このトンネルだけは,いつもがらすきなのもちょっと奇妙である。
デイヴィツカー駅前でMさんを拾ってドレスデン方向の高速に乗り一路北へ向う。テプリッツェへの途中,ちょうど30km地点で高速の右手に小山が見える。この小高い山は以前から気になる存在であった。あるチェコ人から「この山は,チェコにとって歴史的に非常に重要な地点である(この山の山頂からチェコ国が発見された)」ということを小耳に挟んでいたので,帰りに寄ることにした。向日葵畑に黄色い色が目立ち始めた。
プラハから35km地点で高速を降りて,更に12km北上すると,長閑な田舎に突然ナチスの強制収用所テレジーン(Terezin)が現れた。国が管理する墓地の全ての墓石には,真赤はバラの花が飾られていて,その歴史的意味を知ることが無ければ,なんとも美しい光景である。
ゲットー資料館との共通チケット(180kc)を購入して入場。そこには,何処かで見たものと同じドイツ語が現れた。
「働けば自由になれる」。それは,ポーランドのアウシュビッツ収容所の入り口にある言葉と同じであった。写真は,3月にポーランドへ行った際に訪れたアウシュビッツ(オシュウェンチム)とビルケナウ収容所ガス室へ続く線路。
テレジーンは,ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所へ移動する囚人達の中継地点として主に機能していた。しかし,ここでも1943〜1945年に7千人のチェコ人やスロヴァキア人が死亡している。処刑場(銃殺,絞殺)もあるが,ここでは300人ほどしか処刑されていない。多くは劣悪な環境下で病死したそうである。収容施設には,当時の木のベッドやストーブなどが残されており,綺麗にされた部屋だが,独特の嫌な匂いが染みついている。
テレジーン収容所は,ヨゼフ2世がプロシア-オーストリア戦争で敵軍を防ぐ為に1780〜1790に作らせた要塞を利用して建設されている。要塞の中には,入り組んだ地下壕があり,観光客は長い地下道を抜けて歩いていく。実際にこの地下壕は収容所の施設としては使われていない。外の猛暑とは裏腹に壕内はとても涼しかった。
ゲットー博物館を見学。収容施設の子供達が描いた絵が痛々しかった。
テレジーンで我々は激しい雷雨に直撃され,20分ほど足止めを食らった。雷雲が去り我々は雷雲を追いかけるようにテレジーンを後にした。この後,我々は神の洗礼をうけることになるとは知らず。。。
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1. チェコのゲットー [ 旅する物理屋 ] July 17, 2005 01:31
チェコ滞在最終日のソラさんとの小旅行報告をします。私は午前中お土産などの買って、午後地下鉄A線の最終駅Dejvicka駅で待ち合わせをした。70リットルのザックをしょって町をうろつく私の姿は、さぞバックパッカーぽかったことでしょう。私もこんな重いのしょいたくなかっ